1.志望理由
夏の到来を思わせる熱気が、窓を開け放った校舎の廊下に満ち満ちていた。あれやこれやと説明をしている高校生につきしたがい、雪花(せっか)は同じ中学生の集団に混じって歩いていた。
同じ制服を着た見知らぬ学生は、きっと一学年下の生徒だろう。他校の子たちは同じ学年だろうか。尋ねるほどの積極性を雪花は持たなかったけれど、そうだったらいいのになと思った。受験生の夏ただなかにいながら、志望校の決まっていない現状が、夏の熱気とともにもたれかかってくるようだった。
中学校最後の夏休みは皆、塾で受験対策にいそしんだり、部活動最後の引退試合に臨んだりと忙しなく、むろん雪花もそうした一員としてあわただしく過ごすつもりだった。三年生にあがり、適度に受験勉強を進めながら、活動日が週二回しかないゆるい手芸部を引退し、この夏を迎えた。
日々に流され、やりすごすことは得意だった。こだわりを持たず、反発もせず、心穏やかに過ごすよう努めてきた。元来がのんびりとした気性なので、その過ごし方は雪花に合っていた。
けれど、この夏を迎えるにあたり、問題がひとつだけ浮上した。
志望校が決まらなかったのだ。
願書の提出は年明けの一月だったので、七月時点での志望校未定は、些細な問題といえばそうだった。秋までに決まれば、と夏休み前に担任から励まされ、しかし目標が定まらなければ勉強にも身が入らないだろうと苦い顔をされた。
雪花と同じような状態の生徒は他にもいたものの、話を聞く限りではどの子も複数の選択肢から決めかねる、といった具合だった。成績から鑑みて、手の届く範囲がどのあたりの高校で、どのくらいの数があるのかは雪花にも分かっていた。困ったのは、どこに行ってもいいと思えるのに、どこに行きたいとも思えないことだった。コンパスも船もあるのに、向かうべき陸地がない。夜空の北極星ですら無力と化す航海のようだった。
とはいえ、いつまでも決めずにいるわけにもいかない。夏休みに入るとすぐ、さしあたり入学するのに難儀しなさそうな偏差値の高校を見て回った。雪花が求めていたのは決め手だった。
だから、四階の踊り場へ辿りついたとき耳にしたその歌声を、ある種の運命だと受け取ったのだ。
「天使が歌っている」
階段で雪花たちの集団と通りすがった生徒たちが、そんな言葉を口にした。それから間もなく踊り場へ辿りつき、聴いた。聴こえてきた。耳に届いた。そのときの聞こえ方を正確にいうならば、「耳に入ってきて心に響いた」となるのだろう。それはやさしく聴覚をゆさぶり、簡単に侵入しながら、ひりつくような小さな痛みを残していく声だった。
初秋の風のようだ、と思った。夏の熱気を追いやる歌声。木枯らしというほどの冷たさはない、しかしもう夏は終わったのだと突き放すような冷ややかさがあった。雪花の中で、声は簡単に天使という単語と結びついたけれど、天使の語から想起されるような甘い優しさだけの色ではないなと思った。それなのに、夏の名残りを感じさせるようなぬくもりが、声の端々に宿り、響いてきた。
一体何の歌なのか、どこの国の歌なのか、雪花には見当もつかなかった。ただその声をまだ聴いていたいと思った。
引率を担当していた生徒は、歌声のする方向をちらと見やり、「この上は屋上になっています」と説明した。今日の案内ではのぼらないけれど、生徒の立ち入りは可能ですとだけ言い添え、歌声の人物には触れなかった。雪花たちはそのまま、四階の特別教室へ足を向けた。
数か月後、雪花が伏識木高校を受験したのは、いうなればこの天使に導かれてのことだった。